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株式会社北條製餡所

あんが持っている素材本来の美味しさと魅力を活かし"安心・安全で美味しいあん"に、こだわりを持って皆様にお届けしていきます。

魁る 1950年に京都伏見で産声を上げてから半世紀。私たちは常に、「魁る」の精神で無限に広がるあんの可能性を追求し続けてきました。北條製餡所の歴史はすなわち「魁る」精神の物語なのです。

第三章 利権と品質。小豆輸入への挑戦。

全国の製餡業界のみならず農産物輸入制限制度のもとに安穏な経営で暴利をほしいままにしていた小豆等の輸入商社に対し、強烈なインパクトを与えた当社の事業は中国産冷凍小豆の開発輸入である。

1978年11月末、中国から冷凍小豆10㎏の見本が大阪税関に到着した。その年3月、当社が中国に提出した「冷凍小豆開発輸入提案書」に対する中国の返答であった。

早速見本品引き取りの手続きを始めたとき思わぬ支障が生じた。小豆を選別し、水洗し水分62%にまで煮沸し、凍結した商品は過去に輸入例がなく、関税率表の分類に記載がない。このため税関は引き渡し保留のまま大蔵省品質分類課の指示を仰ぐこととなった。

ところが大蔵省から意見を求められた農林省は「小豆輸入割当制度」を楯に見本の廃棄処分を申し入れてきた。時の農林大臣は日本の小豆の主産地、北海道選出の代議士であった。

「小豆輸入割当制度」とは戦後の1950年から1954年までの間に、外国から小豆輸入の実績を有する商社に限って小豆輸入を認める制度で、この特権制度により、製餡業者は常に不当の価格で原料仕入れを強いられているのである。

見本の引き取りは上京して2泊3日の折衝の末、10%であるべき関税を20%で妥協することでどうにか引き取ることができ、提案者として中国に対し一応の信義を果たすことができた。小豆輸入の利権に執着する人達の抵抗を身に沁みて感じたことであった。

1979年3月、当方から提供する機械のリストと製造工程表を携えて成田空港を出発。パキスタン航空の線香くさい食事に辟易し、ウイスキーの酔いに気を引き立たせて北京まで4時間の心細い1人旅であった。北京2泊。ホテルのシャワーは湯が出たかと思うと水になる不完全設備。3月初旬の北京は朔風の中、寒さと埃で目もあけられぬ中を北京総公司との打ち合せをすませて工場所在地の山東省青島に向かう。列車は4人1室のコンパートメント、暖房なし、窓の隙間風でカーテンは終夜ヒラヒラと。防寒服のまま毛布をかぶって17時間の夜汽車の旅である。

ホテルに当てられた宿舎は、その昔ドイツ租借時代の松林に囲まれた赤煉瓦の1棟。妙に格式張った歓迎宴の翌日から工場現場の検分。提供機械と製造工程の説明等の日程を消化し、答礼宴のあと上海まで24時間の汽車の旅。JALの座席に埋まるとドッと疲れを覚えた。冷凍小豆開発の旅の始まりであった。

同年6月発送した機械を追って再び出発。梱包解体、据付試運転の後、提案通り10名の現地従業員を集めて説明会に入ろうとすると、青島革命委員会(現市政府)から差し向けられた従業員は60名。日本式合理経営で機械化による少人数運営ばかり考えていた我々にはどうしていいかわからない。貿易商談に入って当方の希望価格の2倍を主張して強硬に契約を迫る分公司の主任は25才の青年であった。
1979年8月、提供機械による製品初入船。胸膨らませて開封した製品からは、小石、砂、木片等の異物がゾロゾロ。正に怒り心頭に発して9月、さらに11月、12月と現地に飛んで注意指導を繰り返す。

あとで思えばこの当時、彼等には作業管理の理念はなく、ただ革命委から差し向けられた人数が寄り集まって、時間を消化するための作業をこなすだけで、まして品質管理などは彼等の貧しい食生活の意識ではとうてい理解できるものではなかったのだ。
翌80年、当社のベテランを1ヶ月にわたって指導のため派遣、さらに中国側を日本に招待して日本の現状認識を深めさせる等、我慢、辛抱の指導を続けること3年、漸くわずかに手を加えて使用可能の冷凍小豆ができあがった。汚水処理の軽減、作業時間の短縮仕入れ価格の平準化等で経営寄与できる原料となった。提案より10年、とにかく中国との取引が続いている。食品で中国と10年。希有のことである。

胸膨らませて開封した製品からは小石、砂、木片などの異物がゾロゾロ・・・