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株式会社北條製餡所

あんが持っている素材本来の美味しさと魅力を活かし"安心・安全で美味しいあん"に、こだわりを持って皆様にお届けしていきます。

魁る 1950年に京都伏見で産声を上げてから半世紀。私たちは常に、「魁る」の精神で無限に広がるあんの可能性を追求し続けてきました。北條製餡所の歴史はすなわち「魁る」精神の物語なのです。

第一章 長いひと夏。業界初のアイスクリーム用餡。

魁。北斗七星の第1星。先駆ける者は常に強く風を受ける。次に駆ける者は風除けの恵みを得るとともに前者の後塵にまみれなければならない。ここに先駆けて強風に立ち向かうことに快感を覚える人がある。

暑い夏は饅頭(まんじゅう)が売れない。その原料を提供する製餡業者も暇を弄ぶ。製餡業の主人は概して鮎釣りの名人が多いのもここに由来する。

1955年(昭和30年)洋風化の波の中、和菓子の原料主体の製餡業は売り上げの減退する中で、激しい過当競争の渦に揉まれていた。

夏は暇なりとして何のためらいも持たず、諦観してはばからず、やがて来る鮎釣りシーズンに備えて道具の手入れに余念のない1958年3月、クロバー乳業(現雪印乳業)から生餡のサンプル提供の依頼があった。続いて2回、3回の依頼も、一体何のためのサンプルか全く不明。強引に頼み込んで試験室試作係に面接して判明したことは、当時流行した「インスタントしる粉」の売れ残り処分のため生餡を添加するとのこと。

それでは取引に恒久性がない。何とか現状の生餡だけで継続できる方法はないか。残念ながら食品衛生の知識を持たず、アイスクリーム製造の工程すら知らない。知識を得ようにも文献もない。天王寺図書館に通う、主なところを筆記する、わからないところはクロバー乳業の試験室に出向いて教えてもらう。足繁く通うので試験室主任は大阪府衛生研究所を紹介してくれる。

この大阪府衛研に"鬼加藤"と称えられる熱血正義漢がいた。製餡業の夏期の閑散時を埋め、アイスクリーム原料としての餡を開発したいという希望に大いに共鳴してくれる。当時食品衛生の指導監視上、大阪府衛研は峻厳を以て鳴らし、家畜の伝染病の集団発生食中毒事件などに最大限安全確認までの処置を取り、権力者の斡旋に屈せず、いつも辞表を抽出に入れて陣頭指揮に当るのが"鬼加藤"であった。

一日鬼加藤と連れ立ってクロバー乳業試験室を訪ねて、生餡の細菌検査法、ミックス液の殺菌方法、あんアイスの検査法、さらには原料小豆の洗浄法、ボイル温度、製餡工程そして生餡の納入方法、保管方法まで細部にわたって打ち合わせてくれる。

この日から数日後に大量生産方式による"あずきアイス"が誕生し、市場で好評を得た。

勢いを得て、協同乳業(現名糖)への生粒餡の納入に成功した。

先駆ける者には過酷な試練が待つ。クロバー、協同ともに生餡の細菌増殖を懸念して、24時間3交替の作業時間に合せて納品する。早朝から作業に就く、交替人員がないため徹夜作業をする。引き続いて終日作業をし、さらに徹夜作業をする。丸2日2晩の連続作業が続く。疲労のため次々に休業者が出る。ある朝作業にかかったら遂に誰も出勤せずただ1人。

運搬はくろがね号オート3輪が1台だけ。ついには駅前タクシー3台を連ねての深夜納品となる。

めくるめく暑さ、昼夜を分たぬ長い長いひと夏であった。

翌1959年は立花製菓(現カネボウ)、明治乳業、森永乳業へと販路を拡大する。アイスクリーム業界との取引継続には、必然的に食品衛生意識の昂揚と設備の近代化が要求される。木造の工場を鉄骨に改築。細菌の問題を抱える生餡に砂糖を加えて保存性を高め、さらには納入各社の要求する仕様を満たすため専用設備を新設する。

正に暴発的に始まった冷菓用の餡の仕事。年ごとに設備も製品も改良され、アイスクリーム業界に独占的に納入を続けて30年が経った。

暑い夏は饅頭が売れない。その原料を提供する製餡業者も暇を弄ぶ。製餡業者の主人は概して鮎釣りの名人が多いのもここに由来する。